量子テレポーテーション、量子暗号
イントロダクションSFではお馴染みのテレポーテーション。例えば、有名なTVシリーズ「スタートレック」では、カーク船長たちがテレポータールームと呼ばれる特別な部屋に入り、光を浴びた次の瞬間には、見知らぬ惑星表面に立っているというものだった。 現実の世界でも、いくつかの違いはあるものの、量子力学の性質を利用した「量子テレポーテーション」と呼ばれるものがある。この量子テレポーテーションでは、おそらく人間を転送させることはできないが、光子や原子といった小さいものをそっくりそのまま別の場所に転送させることは可能である。いや、実際に 世界のいくつかの研究室で成功している(あとあと紹介する)。 そして、この量子テレポーテーションは、絶対に傍受されない暗号通信を可能にすることができると期待されているのだ。量子コンピュータと合わせて、将来の量子情報の基礎となると考えられている。 それにしても、テレポーテーションという言葉が付いただけで、何やらSFチックな印象がついてまわるが、今回はこの量子テレポーテーションについてできるだけ具体的に見ていこう。 量子テレポーテーションに関する歴史ここでは量子テレポーテーションだけでなく、その理論的基礎となった「EPRペア」の誕生するまでの過程も含めて見てみることにしよう。 20世紀前半 量子力学がほぼ完成する 量子力学は現在まででもっとも成功した理論といえるが、その内容は私たちの日常感覚からは大きくかけ離れたものであった。 量子力学の重要な特徴の一つとして、粒子の状態を観測するまでその状態を知ることはできないという性質がある。これは観測していなから分からないというのではなく、観測されるまでは実際に粒子の状態も決まっていないという意味である。つまり、観測することではじめて粒子の状態が決定するのだ。あらかじめ 私たちにわかることは、どの程度の割合で粒子のある状態が観測できるかといった確率だけでしかないのだ。 また、量子力学にはもう一つ「絡み合い(エンタングルメント)」と呼ばれる重要な特徴がある。これは二つの粒子を一度の操作で同時に発生させると、この双子の粒子は不思議な運命を共有するということである。この二つの粒子は途中で観測を受けるなど邪魔が入らない限り、いつまでも一つ波動関数で表すことができる。そこで二つのうち一方の粒子を観測して、粒子の状態が決定したとしよう。すると、二つの粒子は一つの波動関数で表されるのだから、一方の粒子の状態が決定してしまえば、瞬時にして他方の粒子の状態も決定するはずである。具体的な物理系で考えてみると次のようになる。光子の場合では、一方の光子の偏光が「垂直」と決まれば、他方は「水平」と決まる。電子の場合では、一方の電子のスピンが「プラス」と決まれば、他方は「マイナス」と決まる。 1935年 双子のパラドックス 上で述べた「絡み合い」の性質は二つの粒子の距離に関係なく起こるとされている。ということは、同時に発生させた二つの粒子を反対方向に進むようにしむけておき、互いに一万光年離れたところで一方の粒子を観測した場合はどうだろうか?やはりこの場合でも、一方の粒子の状態が決定すればもう一方の粒子の状 態は瞬時に決定する。 しかし、少し考えるとこれは奇妙なことかもしれない。一方の粒子の状態が決定したとき、遠く離れたもう一方の粒子はどうやってその事実を知ったのだろう?二つの粒子の間にはなにか「連絡手段」のようなものがあるのだろうか?だとすると、その「連絡手段」は超光速ということになってしまう。これではアイ ンシュタインの相対性理論と食い違ってしまう。 1935年に初めてこのことを指摘したのはアインシュタイン、ポドロスキー、ローゼンの三人で、三人の頭文字をとって「EPRパラドックス」と呼ばれている。そしてアインシュタインらは、量子的な絡み合いの背後に「隠れた変数」が存在していると提案した。 これに対し、量子力学の確立に貢献したボーアは、二つの場所での出来事を分離して考えるのではなく、粒子や実験装置を含めた系全体を一まとめにして考えるべきで、一見すると超光速に見えるこの現象には何の問題もないと主張した。しかし、当時は議論が繰り返されるだけで、これが決着することはなかった。 1982年 実験で示された結果 この議論について大きな影響を与えたのはベルで、もし隠れた変数が存在していれば、従来の量子力学で予測される結果と食い違うことが出てくるはずであるといった内容の論文を発表した。この後82年に、この論文に刺激を受けたアスぺが実験を行い、量子力学の正しさを指示する結果を得た。その後も同様の実験 が行われ、ますます量子力学の正しさを指示する方向に進んでいった。 1993年 量子テレポーテーションのアイディア 93年にIBMのベネットは量子レベルの不確かさを利用して、あたかもテレポーテーションのように量子情報を伝えることができる内容の論文を発表した。一般に、EPRペアだけでは意味のある情報の伝達は難しいと考えられているが、二組のEPRペアを用意し在来の通信手段を併用することで、巧みに情報を伝 達する方法を考え出したのだ。これに触発されて、さまざまな量子テレポーテーションを実現するためにアイディアが提案された。 そしてついにベネットのアイディアを実現する内容の実験が行われた。97年にウィーン工科大学で実証に成功したのに続き、カリフォルニア工科大学などでも成功している。 より安全な暗号を目指して古典的な暗号
暗号にはさまざまなタイプのものがあるが、大きく分ければ「公開鍵暗号方式」と「秘密鍵暗号方式」とがある。公開鍵暗号は暗号化する鍵(公開鍵)と復号化する鍵(秘密鍵)とが異なり、秘密鍵は送信者だけが厳重に保管しているのに対し、公開鍵は誰で手に入れることができるようになっている。公開鍵暗号は不特定多数の集まりで便利な暗号なので、インターネットなどで広く利用されている。公開鍵暗号で代表的なものにはRSAがあり、その暗号アルゴリズムは因数分解に基づいている。(詳細は「量子コンピュータ」のページで扱っている。)RSAでは、現在のスーパーコンピュータを使って手当たり次第に鍵を探しても、宇宙の歴史ほどの時間がかかり現実的でないということから、暗号の安全性を保証している。ただ、ずいぶん先のことではあるが、量子コンピュータが実現 されればRSAが瞬時に破られてしまう可能性もある。 一方、秘密鍵暗号は暗号化・復号化する鍵が共通している。一般的にこの鍵さえ盗まれなければ暗号は安全であるが、いったん鍵が盗まれると暗号はまったく役に立たなくなってしまう。したがって、送信者と受信者の間で鍵をやりとりするときに、第三者に盗聴されないようにすることが重要となる。 従来の暗号にはやはり何かしらの弱点があり、すべてにおいて完璧な暗号というものはない。 量子暗号 そこでより安全な暗号として考えられているのが「量子暗号」である。量子力学をその基礎においているので、古典的なものとは別の次元で暗号の安全性を保証できる。量子暗号には主に次の二つのタイプがある。 ・秘密鍵暗号方式で利用する鍵を量子力学的原理によって安全に配布する。 ・情報そのものを量子力学的に暗号化して盗聴を不可能にする方法である。 このページ以降は、前者の量子暗号を中心に取り上げることにする。それでは、量子暗号について具体的な内容を見ていこう。 量子テレポーテーションの基礎ここでは量子テレポーテーションを理解するための基礎知識について簡単に確認しておこう。 粒子の重ね合わせ 量子力学では、電子や光子といった粒子が二つ以上の量子的な状態をとることが可能なとき、観測するまではそれら複数の状態の重ね合わせにある。例えば、電子のスピンは「プラス」と「マイナス」、光子の偏光は「垂直」と「水平」といった二つの状態の「重ね合わせ」の状態にある。 なお、それぞれの状態をビット、つまり|0>と|1>に対応させた場合、量子ビットは次のように表される。(|0>や|1>という表現は「状態ベクトル」という。) c0|0>+c1|1> c12+c22=1 従来のビットならこれは0と1のあいだということでエラーになってしまうが、量子力学では重ね合わせの状態として表される。これが量子ビットと従来のビットの異なるところである。 量子テレポーテーションの媒体に用いるのは光子の偏光でも電子のスピンでも可能であるが、光子は外部からピュアな状態を保ったまま遠くに送ることができるので、量子通信には光子がベストだと考えられている。 粒子の絡み合い 二つの粒子を一度の操作で同時に発生させた場合、その二つの粒子は「絡み合い、エンタングルメント」 と呼ばれる状態にあり、不思議な運命共同体となる。絡み合いの状態にある二粒子は、一方の量子的な状態が決まると、瞬時にもう一方も決まるという性質がある。このことが起きるのは二粒子の距離に関係しない(非局在性)。これのことは、量子テレポーテーションや量子デンスコーディングなどの量子情報通信の基礎となっている。 この絡み合いの粒子対をつくるための具体的な具体的な操作は次のようなものがある。 ホウ酸バリウムのような光学的に非線形な性質をもつ結晶にUVレーザー光をぶつけた場合、一つの光子が波長の長い二つのの光子に分裂することがある。(波長が長くなるのはエネルギーを一定に保つため。)また、分裂したそれぞれの光子は、図に示すような二つの円錐に沿って、はじめのUVレーザーを軸 として対称的に飛んでいく。(対称的に飛んでいくのは運動量を一定に保つため。) 特に、図の二つの円錐が交わるところでは、二つの光子を区別できない絡み合いの状態にある。この絡み合いの光子対については偏光が互いに直交していることは分かっているが、それぞれがの偏向角が具体的にどうなっているかを知ることはできない。このようにして絡み合いにある光子を作成する。この方法はパラ メトリックダウンコンバージョン(parametric down conversion)と呼ばれている。 ベル測定 いわば、パラメトリックダウンコンバージョンの方法は、生まれたときから絡み合いの状態にある二つの粒子をつくりだすというものだ。現在ではこの方法は技術的にも容易になってきた。ところが、すでに孤立して存在している二つの粒子を絡み合いの状態にするのは、もっと難しい。それを実現する例として、次の ようにハーフミラーを用いた方法がある。 図Ⅰでハーフミラーにぶつかったそれぞれの光子は50:50の確率で反射か透過する。例えば、左上からやってくる光子A(青)が反射し、左下からやってくる光子B(黄)が透過する場合は、図Ⅱのように両方が右上に進んでいく。図にはないが、逆に両方が右下に進んでいくこともある。しかし、光子A、Bがともに反射かもしくはともに透過するときは図Ⅲのようになる。ここで注目しなければならないのは、Ⅲの場合、図の右上に進んでいく光子(緑)と図の右下へ進 んでいく光子(緑)のどちらが粒子A、Bなのか区別ができないということだ。つまり孤立して存在していた二つの粒子の区別がつかない。 したがって、光子の進んで行く先に検出器を設置しても二つの粒子を区別することはできない。検出できるのは、二つの粒子が図Ⅱのように同じ方向に進んでいったのか、それとも図Ⅲの用に別々の方向に進んでいったのかという相対的な関係だけである。この相対的な関係には4通りの状態あるが、その状態を観測す ることを「ベル測定」という。 このベル測定が技術的に難しいのは、二つの粒子を区別ができないように同時に観測しなければいけないことにある。つまり、二つの粒子A、Bは同時にビームスプリッターに達するようにしなくては行けない。 補足:ベル測定で観測する4つの状態とは… この絡み合いの状態にある二つの粒子対で2量子ビットを表そうとした場合、どのようになるだろうか?もし二つの粒子を独立して考えたら、それぞれの粒子 は|0>、|1>をとるので、次のような4つの状態が考えられるだろう。 |00>、|01>、|10>、|11> この4つの状態ベクトルは基底ベクトルといい、量子ビットはこの基底状態の重ねあわせの状態にある。 ただし、絡み合いの状態にある粒子で考えるときには、上の基底ベクトルを用いて規格化した「ベル状態」と呼ばれる4つのベクトルで表現するのが一般的である。 |Φ+> = 1/√2(|00>+|11>) 2量子ビットから構成される系が4つのベル状態のいずれにあるかを調べる量子測定はベル測定と呼ばれ、量子テレポーテーションなどの量子通信で重要な役割を果たす。ベル測定では、二つの粒子を同時に観測することが重要となる。このことは「量子テレポーテーションの流れ」のページで具体的に見てみる。 量子テレポーテーションの流れ(理論編)暗号業界では、情報の送信者のことをアリス、そして受信者のことをボブと呼ぶのが慣例となっている。ここでは、量子テレポーテーションを用いてアリスがボブに情報を送信する手順について見てみよう。
いくつか注意しておきたいことは、量子テレポーテーションを用いても「超光速」の情報通信を行うことはできないということだ。確かにEPRペアを用いた量子的な通信手段では瞬時に伝わるが、量子テレポーテーションを完了させるには、電話などの古典的な通信手段を併用する必要があるためだ。 アリスが粒子Aと粒子Bのベル測定を行えば、粒子Aの情報Ψ(光子なら偏光、電子ならスピンなど)は瞬時にしてボブの粒子Bにうつされる。ただし、アリスがベル測定で得た結果をボブが知っていないことには(つまりアリスとボブでベル状態を共有していないことには)、ボブは量子テレポーテーションで受け取った情報Ψをアリスの送信したかった情報に変換することはできない。したがって、ベル測定を終えたあと、アリスは古典的な通信手段を用いてその結果をボブに知らせてやる必要があるというのだ。 では、こんなことで量子テレポーテーションの安全性は守れるのだろうか?とくに古典的な通信手段がネックになるように思われるが…。そこで、イヴが次のような計画でアリスとボブの通信を盗聴しようとした場合を考えてみよう(暗号業界では盗聴者のことをイヴというのが慣例)。 計画A.量子通信で無理やり割り込んで情報Ψを盗聴する まず、計画Aの場合はどうだろうか?イヴが量子通信を盗聴することは技術的にも簡単なことではない。しかし、仮にうまくやって量子通信の情報を盗み出せたとしても、それだけではイブのもくろみが達成されたとはいえない。先ほども述べたように、情報Ψだけでは意味のある情報を得ることができないからだ。ベ ル測定の結果も合わせて盗み出さなければならないからだ。 では計画Bは?電話など古典的な通信手段を盗聴することなどたやすいはずだ。こうしてイブはベル測定の結果を得ることができる。しかしこの場合も、ベル測定の結果だけを盗んだのでは意味がない。変換すべき情報Ψがなければ、やはり意味のある情報を盗めたとはいえないからだ。 そこで、イヴは情報Ψとベル測定の結果の両方を盗聴しようと考えたとする。つまり計画Aと計画Bを同時に実行しようというわけだ。しかしそれは無理な話だ。なぜなら、計画Aを実行するときイヴが量子的な絡み合いを壊してしまうために、アリスやボブに自分の存在を知られてしまうからだ。イヴが何の痕跡もなく盗聴することが不可能というのは、技術的に不可能というのではなく、理論的に不可能なのだ。もし盗聴者の存在を知れば、アリスとボブはベル測定の結果のやりとりを止めるだろう。したがって、イヴは計画Bを遂行できなくなってしまうからだ。 こうして量子テレポーテーションを利用すれば、絶対に盗聴されずに情報を送ることができるというわけだ。この方法を用いて、アリスがボブに秘密鍵を送れば、安全な量子暗号が実現する。 量子テレポーテーションの流れ(実験編)前のページで量子テレポーテーションの流れについてモデル的なものを見た。では、具体的にどのような実験で量子テレポーテーションが可能なのだろうか? 先にも述べたが、量子テレポーテーションの媒体に用いるのは光子の偏光でも電子のスピンでも可能であるが、光子は外部からピュアな状態を保ったまま遠くに送ることができるので、量子通信には光子がベストだと考えられている。 ここでは、光子を用いた量子テレポーテーションの実験を見てみることにしよう。これは1997年にオーストリアのインスンブルック大学で行われた実験である(ただし、下図は簡略化している)。
まずは、EPR光源で絡み合いにある二つの光子を発生させる。この具体的な方法には、「量子テレポーテーションの基礎知識」のページで紹介した紫外レーザーを非線型結晶に照射するというものがある。このとき発生した二つ光子のうち、光子Bはアリスの方へ、光子Cはボブのほうへ進んで行くように鏡などをセットする。 もう一方の光源では、アリスがボブに送信したい光子Aを発生させる。アリスの光源で発生した光子ははじめ絡み合いの状態にあるが、すぐにフィルタで一定 の偏向角のものだけを選ぶので、結局、絡み合いの状態は解消され単独の光子Aとなる。 次に光子Aと光子Bを絡み合いの状態にするために、アリスが観測機1,2を使って二つの光子を同時に観測する必要がある。このベル測定は「量子テレポーテーションの基礎知識」のページで紹介したように、光子A、Bそれぞれの偏光を測定するのではなく、二つの粒子の相対的な関係(4つベル状態のうちのどれか)を測定するというものだった。 アリスがベル測定を行うと、送信したかった光子Aの偏向角がボブの粒子Cにコピーされるというわけだ。ただしボブが光子Cの情報を得るためには、古典的な通信を使ってアリスからベル測定の結果を聞かなくてはならない。 今後の展望&リンク集より遠くに、より大規模に 実用性を考えると、前のページで紹介した装置のような方法で、数十cmという短い距離で量子暗号のやり取りをしてもほとんど意味はないだろう。しかし、長距離で量子テレポーテーションを行うことは決して容易なことではない。というのも、量子的な絡み合いというものは非常にデリケートなもので、ノイズなどによって簡単に乱されてしまうからだ。長距離な量子テレポーテーションを行うためには、現在の光ファイバーが途中で光の増幅を行っているように、途中で絡み合いの状態を補強してやるような仕組みが必要となる。これは非常に難しいことだと考えられているが、2000年ごろから、光ファイバーを利用して数十km先まで量子テレポーテーションさせることに成功したという報告されるようになってきた。 また、多くの情報を送るためには、1ペアの量子的な絡み合いをつくるだけではなく、より複数の絡み合いをつくる必要があるだろう。光子は独立性が強いため、これも簡単なことではないが、やはり最近になって、より複雑な絡み合いを実現したという報告がされるようになってきている。 20世紀初頭に誕生した量子論は、当時、思考実験でしか議論できないような状況だった。そして学問的な色合いが濃く、とても日常生活に応用できるようなものではなかった。しかし80年代ごろから、量子論と情報科学が結びついて量子情報科学という分野が誕生し、いくつか実用的な応用例が提案されるように なってきた。そして、その十数年後にはこうして実験で示されるほどになっているのは驚くべきことだ。 リンク集 外部リンク R&Dリンク ニュース&解説
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