有機トランジスタ&プリンタブル集積回路
イントロダクション一日に国内で印刷されている新聞紙の部数は朝刊だけでも5000万部にもなる。このニーズにこたえるためには、文字通り飛ぶように新聞を印刷していく高 速輪転機が必要となる。その性能はまさに驚愕もので、最高で一時間あたり15万部(1部4ページ)を印刷することも可能だ。 印刷速度という点では新聞の輪転機と比べて劣るが、パソコンとともに家庭に普及したプリンタも見逃すことが出来ない。国内でプリンタの普及台数は 1000万台近くだと考えられ、仮にこれがフル稼働すれば、数の上では高速輪転機よりもポテンシャルが高いことになる。 …もし、こんなふうに手軽に集積回路が印刷できたらどれほどよいことか。 現在の半導体集積回路は、真空、高温、超高価な装置などと、とにかく複雑な製造行程を経て出来あがる(「ICチップが出来るまで」を参照)。輪転機やプリンタで新聞を印刷するのとは桁違いに作業が複雑だ。 しかし最近になって事情が変わってきた。急速に展開してきた有機エレクトロニクスにより、無機結晶の半導体ではなく導電性高分子を使ったトランジスタなどが試作されるようになってきた。これによっていずれは、プラスチックで出来た集積回路が輪転機やプリンタといったお手軽な装置で大量安価に作ることが可能になるだろう。 もっとも性能の面では、プラスチックトランジスタはシリコントランジスタに対して勝ち目はない。しかしプラスチックトランジスタは、プラスチックならで はのフレキシビリティや軽さ、薄さ、それに安さによって、シリコンにはないニッチ市場を広げることが可能だ。ここではプラスチックトランジスタの性能や、 製造行程、「ならでは」の応用例などを見ていくことにしよう。
・有機ELの科学:ホタルの発光から量子効率まで 有機トランジスタの基礎有機トランジスタは従来の無機結晶のトランジスタと比べて、どのような違いがあるのだろうか? トランジスタ(FET)の動作原理そのものは、両者でそれほど大きな違いはない。しかし製造方法や応用範囲などは、両者間でまったく異なる。また、有機トランジスタとひとことに言っても、使用する有機分子が低分子系か高分子系かで、その製造方法や用途も大きく異なる。 そこで有機分子トランジスタの特徴をつかむためにも、無機結晶、有機低分子、有機高分子の三つのタイプの電界効果トランジスタ(FET)を、構造、材料、性能、製造プロセスといった点から比較してみることにしよう。 表.無機結晶、有機低分子、有機高分子のトランジスタの比較一覧
高分子を用いたトランジスタは、製造プロセスの改良次第でスイッチング周波数を大きく向上させられると考えられている。また輪転機印刷やインクジェット プリンタ印刷などの簡易な製造方法と、幅広い応用範囲の可能性から、低分子系よりも高分子系有機トランジスタの方が多いに注目されている。 そこで次のページでは、高分子系の有機トランジスタの製造プロセスの詳細を見てみることにしよう。 プリンタブル集積回路、必要な技術成形容易な高分子エレクトロニクス あたりの人工物を見まわしてみると、そのほとんどが合成高分子で出来ていることに気づく。あなたが着ている服も、今たたいているキーボードも、そして一 見木目調の壁紙も実は合成高分子で出来ていることが多い。身の回りの人工物のほとんどが合成高分子から出来ているのにはいくつかの理由がある。そのなかで も重要なのが合成高分子の成形の容易さだろう。特にエレクトロニクス分野では、薄膜形成が容易だということがキーポイントとなってくる。 薄膜形成は固体のものと液体のものとで製造プロセスが大きく異なる。 シリコンエレクトロニクスの薄膜形成は前者の方で、蒸着法などのプロセスがとられている。蒸着というのはなかなかシビアなプロセスで、真空や高温などの条件を満たさなければならない。しかも技術的な要因から、直径300mmウエハなどというふうに非常に狭い面積に限られる。 一方、有機エレクトロニクスでは高分子が溶解した液体状態なので、まるでインクをつけてスタンプを押したり、インクジェットで吹き付けたりと容易に薄膜を形成できる。それではこれらの技術について具体的な内容を見ていこう。 ポンっとスタンプで – マイクロコンタクトプリンティング チオール基(-SH)と金基板との間では特殊な化学結合が生じ、チオール基が整然と配列する「自己組織化膜(SAM;Self-Assembled Monolayer)」ができあがる。このアルカンチオール(RSH)をあたかもインクのように用い、金基板に転写するのが「マイクロコンタクトプリンティング(micro contact printing)」法である。この方法はハーバード大学のG.Whitesidesによって提唱された。 具体的には次のようなプロセスを踏む。
このマイクロコンタクトプリンティング法では、数ミクロンからサブミクロンという非常に微小な構造の作成が可能になるとされている。電界効果トランジス タではチャンネル長を小さくすることが性能向上につながるため、これがマイクロコンタクトプリンティング法の利点といえる。 なお、マスター盤を作成するのにはリソグラフィーなどの従来の半導体微細加工技術を使用しなければならないが、いったんマスター盤が完成すればあとはそれを使いまわすことで比較的短時間で効率よく印刷が行われるとされている。 この方法を採用して、E Inkと共同開発をしているベル研が電子ペーパーの有機駆動回路の作成に成功している。 家庭のホームプリンタでチップを印刷 かつては、ハンダゴテを片手にラジオを分解して電子回路をいじくりまわす工作小僧がどこにでもいたが、最近ではその数もめっきり減ってしまった。ところ が21世紀になって、別のかたちでそういった工作小僧が復活するかもしれない。しかし、ハンダゴテではなく、パソコンのプリンタを用いて…。 最近では国内外のベンチャー企業を中心として、液状高分子をインクとしてインクジェット型プリンタで電子回路を描画してしまおうという試みがなされている。その方法について下図に示す。
これまでインクジェットプリンタを用いた方法では、印刷が「にじんで」微細な回路が作れないことが問題となっていた。しかし最近になって、英国のベンチャー企業Plastic Logic社が、疎水性のpolyimide(絶縁体)をスペーサー役として用いることで、微細な回路を鮮明に印刷することに成功している。 国内では産業技術総合研究所のナノテクノロジー研究部門がハリマ化成と共同で、インク吐出量をフェムトリットル(市販のプリンタはピコリットルであり、フェムトはこの1/1000)にすることで、超微細回路の描画に成功している。 また同研究所の光技術研究部門では、常温常圧下における簡易印刷プロセスで製造可能な「トップアンドボトムコンタクト型素子構造」を提案し、チャンネル長が0.5μmというサブミクロン領域の造形に成功している。 インクジェットを採用した方法は、マスクの作成などの複雑なステップを経ることなく直接描写が可能なため、製造プロセスの大幅な簡略化が図れると期待さ れている。また曲面印刷も可能など、従来の半導体微細加工では難しかった応用例が実現できるとされている。 "Roll2Roll"
ただし、上の開発チームが用いているのは、有機分子ではなくアモルファスシリコンなどの無機非結晶である。ただ、高分子もたいていが非結晶であること や、最近では有機分子のキャリア移動度が向上しアモルファスシリコンに近づいていることなどを考えると、この技術は有機エレクトロニクスにも利用できるか もしれない。 なお、このプリンタブル回路はシリコン単結晶のものとは性能で大きな差があるため、高密度集積回路のような用途には向かないとされている。ただし、制作 コストが安価なことや薄型・フレキシブル化が可能なことから、RFIDタグ(次頁参照)やフラットパネルの駆動回路などの用途が想定されている。 「ならでは」の応用例高速化するほど広がる有機トランジスタの応用分野 またキャリア移動度が上昇すれば、トランジスタのスイッチング周波数も向上する。こうして有機トランジスタが高速化すれば、それまでアモルファスシリコンが担ってきた液晶ディスプレイ(LCD)のTFT(thin-film transistor)や、より高速なポリシリコンやシリコン単結晶が担っているLCDのドライバ回路に有機トランジスタを利用することが出来る。 他にも、高速な有機トランジスタは「RFID(radio-frequency idifiencier)タグ」などに使えると期待されている。RFIDタグもやはり現在はアモルファスシリコンなどの無機物が利用されているが、仮に材料・製造コストが安い合成高分子で代用できるようになれば、はかりしれないほどのインパクトを社会に与えることになるだろう。 すべてのものにチップを – RFIDタグ RFIDタグにはバーコードのように製品を一括管理しやすい名札としてのはたらきがあるが、バーコードとの大きな違いはいちいちバーコードリーダーを近 づけて読み取る必要がないということだ。つまり、特定のゲートを通過するだけで、RFIDタグの情報が認識される。この身近な例を挙げれば、書店で設置さ れている万引き防止用の装置がそうだ。CDやテレビゲームのような高価な商品にはこのRFIDタグが取り付けられている。この万引防止という用途はどちら かというと消極的な利用方法だが、RFIDタグにはこんな積極的な利用方法も考えられる。 例えば、夕飯の支度時間の17,18時のスーパーは客でレジに行列が出来ている。多くの人がこれにうんざりしているだろう。しかし、すべての商品に RFIDタグが取り付けられていれば、カートに商品を入れたままゲートのようなものを通過するだけで精算が終了してしまうという寸法だ。
現在、無機結晶のRFIDタグが技術的に可能なのに、こういった利用がされていないのは、RFIDタグの材料費や製造コストの問題から、すべての商品に タグをつけていては採算が合わないことがあげられる。誰も100円の缶ジュースに100円のコストがかかるRFIDタグをつけるようなことはしないだろ う。しかし有機高分子でRFIDタグが作成できるようになれば、コストは大幅に下げることが出来る。 なお、すべての商品にタグをつけていては、識別ナンバーが足りなくなってしまうのではないかと心配する人もいるかもしれないが、決してそんなことはない。単純に計算すれば、64bitのRFIDタグなら264(=1.8×1019)個の商品を識別することが出来る。256bitなら2256(=1.2×1077)個の商品を識別することが出来る。おそらくこの数は地球上すべての原子にタグをつけるのに十分なほどだろう。 現在、安価なRFIDタグの製造を目指して、米国の多数のベンチャー企業が研究開発を行っている。 フレキシブル・ディスプレイはフレキシブルなTFT、ドライバ回路が必要 有機ELディスプレイや電子ペーパーは、従来のLCDにはないフレキシブルという性質が大きな売りとなっている。確かに特有の表示原理からそれは可能なのだが、これはあくまでフレキシブルなTFT、ドライバ回路が実現したら…の場合である。
一般に、動画表示ディスプレイのTFTには104Hzのものが必要となり、駆動回路には107Hz程度のものが必要となる。有機トランジスタにとってはこのハードルは決して低くはない。しかし薄膜加工の技術進歩などによって、すべてが有機分子からなるディスプレイが登場するのも夢ではないかもしれない。 現在では、E Inkと共同研究を行っているベル研などが電子ペーパー向けの有機TFTなどの開発を行っている。 今後の展望&リンク集今後の展望 では現在、有機トランジスタ&プリンタブル集積回路の研究開発はどの段階まできているのだろうか?確かに現時点では、基礎研究が終了したとは言いがた い。しかし、特に欧米では製品化に向けて、多くの企業が提携をはじめている。 有機トランジスタ&プリンタブル集積回路は、化学分子などの材料、駆動回路などの設計、印刷など、一つの企業だけではカバーしきれないほど多様な施設や 技術が必要となる。そのため、特に米国では半導体産業で分業化が進んでいるように、有機エレクトロニクスでも分業化を進めようという考えのようだ。 例えば、Motrola、Dow Chemical、Xeroxの三社が独自の技術を生かして提携を発表している。他にも、IBMやLucent、Philips、DuPont、3M、Siemensといったビッグメーカー、大学やベンチャー企業なども提携を活発化させている。国内でもこういった動きが活発化している。 リンク集 外部リンク集 ニュース&解説 |