■トランジスタ
- トランジスタ誕生から集積回路への利用までの歴史
20世紀最大の発明を何とするかは意見の分かれるところだが、その中でも計算機、レーザー、原子力などと共に必ず登場するのがトランジスタだろう。トランジスタはどういう経緯で発明されたのだろう?今やトランジスタなしではコンピュータはあり得ないと言ってもよいほどだが、トランジスタはどのようにして今のコンピュータと融合していくことになったのだろう?このページでは、トランジスタ誕生から、トランジスタが集積回路に利用されるまでの経緯を簡単に見ておこう。
20世紀初等 AT&T,ベル研の行く末に立ち込める暗雲
当時から世界最大レベルの研究所として知られていた米国ベル電話研究所(ベル研)は、その行く末に大きな問題を抱えていた。それは、グラハム・ベルの発明した電話の特許が切れたあと、どう他との競争で生き残っていこうか、その解決策が見つからなかったためだ。そこで考えられたのは、大陸横断電話だった。長距離情報通信のため信号の増幅器が必要になるが、当時あったのは真空管によるものだけだった。確かにこれで長距離電話は可能になるのだが、真空管は寿命が短く信頼性も低かった。そこで半導体に何か解決の糸口を見出せないか、ベル研の研究者たちは頭を悩ませていた。
1947年 世界初のトランジスタの発明
ここで、トランジスタ発明で最も有名な三人が登場する。ショックレー(Bill
Shockley)をリーダーとし、 ブラッテン(Walter
Brattain)やバーディーン(John Bardeen)たちからなる研究チームが、ベル研のこの問題に取り組んでいたのだ。はじめは、ショックレーの提案した電界効果(field
Effect)を利用するスイッチ(のちの電界効果トランジスタ、FET)の開発に取り組んでいたが、うまくいかなかった。また、ショックレーと他の研究員たちとの人間関係もうまくいっていなかったため、じきにブラッテンたちは独自の研究をはじめるようになる。そこでブラッテンは思わぬ現象に出くわす。
図のように、金属針(E)にプラスの電圧を、金属針(C)にマイナスの電圧をかけたとき、電極(B)の電圧次第で、E(emitter)とC(collector)の間に電流が流れたり流れなかったりすることが分かったのだ。これこそ、現在「バイポーラトランジスタ」と呼ばれているものの原型だった。今では、このトランジスタを「点接触型トランジスタ」と呼んでいる。この理論の確立にはバーディーンが大きく貢献した。
この発見を聞いたショックレーは、動作が不安定だった点接触型トランジスタを改善して、「接合型トランジスタ」を考案している。ちなみにトランジスタというのはベル研によって作られた名前だが、もともとは"transfer+resistor(電気を伝える抵抗素子)"という言葉からきている。
この三人は56年にトランジスタの発明・開発の業績を評価され、ノーベル物理学賞を受賞している。
1959年 集積回路に使われたトランジスタ
今では集積回路(IC)=トランジスタという式が成り立つほどだが、トランジスタが集積回路に使われるためには、ショックレーたちのトランジスタに、さらなる改良が必要だった。ラジオやハイファイシステムの内部を覗いたことがある人ならご存知のように、そこにあるトランジスタは配線をめぐらしたプリント基板にはめ込まれており、別々の部品となっている。ところが、ICのトランジスタは根本的にこれらの構造と異なる。ウエハーと呼ばれる基板に平面状に掘り込まれているのだ。それを可能にしたのは、「プレーナー型トランジスタ」という、平面構造をとったものだった。このトランジスタを使った集積回路は、ショックレーと仲たがいして独立した研究員たちが設立したテキサス・インスルメンツ社によって59年に製造された。当時は大きなセンセーショナルとなった。また、ショックレーから独立したメンバーの中には、今のインテルを設立したノイスやムーアがいる。
1960年 遅れて来たトランジスタの花形、MOS
FET
さて、これまで話してきたのは、すべてバイポーラトランジスタというタイプのものだが、現在集積回路で使われているトランジスタは、これではなく「MOSFET:MOS電界効果トランジスタ」である。FETは40年代の失敗以来、50年代にショックレーによって復活させられているが、実際に使えるものができたのは、60年にベル研のカーン、アタラたちのMOS
FETを待たねばならなかった。しかし、集積回路の製造が行いやすいことから、すでに開発が進んでいたバイポーラトランジスタにとって替わってしまった。こうして今の集積回路の基礎はできあがった。
次はMOS FET、バイポーラトランジスタがどのような原理でうごいているのかを見てみることにしよう。
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