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マイクロチップに溶けこむ神経細胞


---マイクロチップの上に縦横無尽にネットワークを張りめぐらす神経細胞を利用して、ニューロチップと呼ばれるものがつくられています。これは、人工網膜やバイオセンサーといった医療パーツに応用できるだけでなく、より優れた人工知能をつくることにも役立つでしょう。しかし、本当に生きた神経細胞をシリコンチップに共生させることはできるのでしょうか?---


この記事では

 創作する回路
 
さまざまな人工器官がからだに取り込まれてきたけど・・・
 神経細胞どうしの「会話」が聞こえた
 実現までの長い道のり

     という内容で構成しています。
 

創作する回路

 何世紀もたった今でも、アンコールの遺跡は、あまり姿を変えることはありません。正確には、姿を変えないのは遺跡の建物と言うべきかもしれません。建物を包み込んでいる熱帯の木々の方は、枝や根を複雑に絡み合わせながら絶え間なく成長しつづけ、一種の複雑なネットワークを作り上げているかのように見えます。そのあまりに対称的な風景に、写真を見ただけでも圧倒されることは少なくありません。
http://members.nbci.com/pipimaru/camb/camb/5/cbd00210t.html
http://members.nbci.com/pipimaru/camb/camb/5/cbd00207t.html

 ところで、そんなアンコールワットの遺跡を思わせる風景を、小さなコンピュータチップの上でも見ることができます。(写真↓)
http://www.biochem.mpg.de/mnphys/projects/abstracts/00fro/picture2.jpg
http://www.biochem.mpg.de/mnphys/projects/abstracts/01zecfro/abstract.html

 この写真はマックスプランク研究機関の研究者であるピーター・フロムハーツが、意図的に神経細胞をシリコンチップの上にのせて成長させたものです。しかし、なぜこのようなことをする必要があったのでしょうか?

 神経細胞もシリコンチップも、電気信号をつかって「会話」しているといった点など、お互いに似ているところがあります。しかし、遺跡と木々の話のように、回路のかたちの変わらないシリコンチップに対して、神経細胞のほうは絶えず縦横無尽に新しいネットワークを張りめぐらしていきます。実は、このように両者の大きく異なった特徴を同時に利用していくことは、何かとメリットの大きいことなのです。

 例えばこれを利用することで、人工網膜やバイオセンサー、ペースメーカー、考えたことが伝わる義足などの人工的な医療パーツが、ますます自然に人の体へ溶けこませていくことが可能になるでしょう。このおかげで、緑内障による失明などから重度のパーキンソン病や鬱病などに至るまで、化学治療法で治すのが難しいとされてきた病気やケガを負った人にも、普通の人に近い質の高いくらしを実現してくれることになるでしょう。

 また、神経細胞のネットワーク、つまりニューロンとシナプスのつながりというのは、私たちの記憶を形成していく過程そのものに深く関わっています。そのことを考えれば、このネットワークを上手く扱っていくことで、新しいタイプの人工知能やコンピュータを作り出すことができるかもしれません。こういった興味もつきません。

 そこで今回は、ややSFチックな話ながらも、着実に進歩しているこの分野をのぞいてみることにしましょう。



さまざまな人工器官がからだに取り込まれてきたけど・・・

 体の一部に人工の機械が入り始めたのは、何も昨日や今日の出来事ではありません。ずっと以前から、心臓のペースメーカーは体の中に溶けこんでいました。それに、最近では人工心臓や脳のペースメーカーというものも登場し始め、テレビうつりのよいものとして取り上げられています。

 少しも外見が似つかない人工器官が、人間の体とのあいだで、このように互いにコミュニケーションをとってこれた理由は、両者が電気的な「会話」をするという点で共通していたためです。脳の情報に関わる活動は、基本的にほとんど細胞どうしの電気的な会話からなっています。

 例えば最近話題になった脳のペースメーカーの場合はどうでしょうか。まず、脳に存在している100億個のニューロンのうちのひとつに電気パルスを送り、それが化学物質を放出するのを誘発します。すると、まわりの神経細胞もその化学物質に促されて新しい電気パルスを他のニューロンに送るといった仕組みです。脳の化学物質の分泌が不足するとパーキンソン病の症状などが現れるのですが、このように電気信号で化学物質を分泌させることで症状を抑えることができるというわけです。

 むしろ20世紀の中ごろまで、頭に細い針を通し脳へ電気の刺激を与えて、うつ病などの症状を抑えるという電気的な治療は、今より頻繁におこなわれていました。しかし20世紀後半に、神経薬理学がめざましく発達し、また社会的な価値観などによって、この電気的な治療法はあまり行われなくなっていったのです。しかし技術の進歩のおかげで、ここ10年程のあいだに再びこういった治療がされるようになってきました。

 確かに電気を流すことで症状が好転するのですが、その仕組みの化学的な原理となると、推測がされている程度のもので、ハッキリしたことは分かっていないと言われます。この電気的な治療に反対する専門家が決まって口にすることは、まさにここにあります。(もっとも、重度のパーキンソン病などには、化学薬品による治療が効かず、電気的治療の専門家の方も同じように口をそろえて指摘しているのも事実です。さらに、患者の方は、少しでも症状が軽くなることを望んで進んで新しい治療を受けるという背景があるので、ますます複雑な事情になっています。)

 いずれにせよ、電気的な治療の仕組みがハッキリしないことには、人工網膜やバイオセンサーといったもっと複雑な装置を人工器官を体に組み込んでいくことは、それほど容易なことではありません。


 実はそのためにも、先ほどのシリコンチップと神経細胞を合わせたような「ニューロチップ」の研究が必要だと考えられているのです。

 これまでにも生物学者や脳神経学者がニューロンや他の神経細胞の仕組みを調べてきました。最近では、その気になれば、脳でたくさんの神経細胞がしている「会話」を、脳の活動を映像化するPET(positron-emission tomography)やfMRI(機能的磁気共鳴画像、functional MRI)などの装置を利用して、横から盗み聞きすることもできます。

 しかし、その装置を利用して脳のなかを見たといっても、それはたくさんの神経細胞の集団が同時に会話したもので、それから個々の意味を読み取ることはほとんど不可能に近いことです。雑踏のなかでいろいろな人の会話を同時に理解しようとするのが難しいのに似ています。このように間接的にマクロな視点から脳の活動を観察しているだけでは、実際に個々のニューロンがどう活動しているかということは、ぼんやり程度も分かりません。

 そこで脳という神経細胞の大集団ではなくて、もう少し少数の神経細胞の集まりを使って、その会話を聞くことはできないものかと考えられてきました。そのため、これまでに何度となく、神経細胞を使って簡単な回路を作ろうとしていたのですが、そう簡単にはいきませんでした。無理やり神経細胞を取り出して回路につなげようとすると、細胞を傷つけて殺してしまう恐れがあったからです。




神経細胞どうしの「会話」が聞こえた

 そんななか、フロムハーツ氏の今回の実験は、少数の神経細胞にネットワークに結ばせて、「会話」を聞きだすのに成功しました。

 使われたのは、人やマウスの細胞よりも少し大きいカタツムリの脳の神経細胞でした。これを脳の中と同じような環境条件の媒体を使って、マイクロチップの上にのせました。

 ここでの大きな問題は、どうやって神経細胞をマイクロチップの上に固定するかということでした。脳の中では神経細胞が常に動いているように、何も固定しない状態で単にチップの上にのせただけでは、ニューロンが他のニューロンとシナプスを結ぶ過程などで少しずつ動いてしまうからです。これでは、ニューロンの下のマイクロチップの回路の接触部とずれてしまいます。

 そこで、プラスチックの小さな杭を使ってニューロンの周りを囲むことで固定しました。これによって、20個ほどのニューロンを、環状に固定することができました。またニューロンの下のシリコンに、電気信号を送る回路と受ける回路の2種類があるのが分かります。(下のページの図A,B,C↓)
http://www.biochem.mpg.de/mnphys/projects/abstracts/01zecfro/abstract.html


 その一方で、ニューロンどうしが互いにシナプスを縦横無尽に張り出すことによって、環状部の中央で非常に複雑なネットワークを作り上げていることも分かります。このシナプスは一見無意味に広がっているように感じるかも知れませんが、このマッピングこそ私たちの記憶の形成に深い関わりをもっているはずなので、これを研究していくことで面白いことがわかってくるでしょう。

 シリコンチップの回路からこのニューロンの一つに電気信号を送ってやると、そのニューロンが他のニューロンに信号を伝えて、それぞれのニューロンに対応するシリコン回路に電気が流れることが確認されました。

 今回の実験は、まだまだシナプスのネットワークを制御したりできるわけでもなく、非常に単純な回路で電気が流れることを確認できた程度に過ぎません。けれど、「シリコン回路>ニューロン>シナプス>ニューロン>シリコン回路」といったように、いったん神経細胞のネットワークを介して電気信号を伝えたのは、今回が初めてのようです。このように神経細胞とシリコンチップで会話をすることがわかれば、他の研究機関でもこの分野の研究をはじめる大きなきっかけとなるのでしょう。




実現までの長い道のり

 まだ現時点では、神経細胞を20個程度つなげた回路で、人工網膜やバイオセンサーが完成するのはずっと先のことです。

 しかし、そういった実用品が完成する前にも、基礎的で重要なこと、例えばニューロンとシナプスのネットワークの形成と記憶を形成との関係などといった興味深いことを研究することが出来ます。

 今回の回路をつくったフロムハーツ氏は、現在、1万5千以上ものニューロンとトランジスタを使って、より大きくて複雑なニューロチップをつくる計画を進行させています。

 またシリコン回路と神経細胞では、確かに電気信号の会話という点では共通しているのですが、線形・非線形という信号の伝わり方などで違うところがあります。これによってより大きなニューロチップをつくる時に、信号の伝達に遅れなどが生じることになるでしょうが、これをどう克服していくかも問題になります。シナプスのネットワークの密度をどれほど上げていくことができるかといったことも見極める必要があるでしょう。こういった技術的な問題もあります。


 そして、もっとも大きな目標として、生物の脳を真似たコンピューティングというものの実現というものがあります。これまでのコンピュータは確かに指数関数的に処理速度が速くなってきました。しかし、つれない言い方をすれば、速度が速くなった以外にほとんど何も変化していないということになります。

 以前、シリコンチップの開拓者で有名なカーバー・ミードが「シリコン自身、ビットというものをまったく認識していない("Silicon doesn’t know anything about bits ")」と言ったように、シリコンチップも必ずしもこれまでのようなアプローチをとってくる必要もありません(他にもいろいろな含みがある言葉ですが)。ほかの選択肢の余地として、ミード氏はこのニューロチップに注目しているのです。

 ニューロチップをこれまでのシリコンチップのように処理速度の速さという点から評価するのでは存在意義が見えてきませんが、シリコンチップが苦手な仕事を上手にこなしてくれるはずです。例えば、生物特有の非常に「あいまい」な判断を利用することができれば、ロボットなどの人工知能にも別の新しい方向性をもたらすことができるでしょう。

 今までコンピュータがいくら速くなっても、私たちがコンピュータに対してコンプレックスを持たずに優越感に浸っていられた理由は、コンピュータにそのような「あいまいさ」を扱う能力がなかったためでしょう。しかし、もし、そういった生物の性質を備えたニューロチップが登場すると、いよいよ私たちはコンピュータに対してコンプレックスを持たなくてはいけないハメになるかもしれません。もっとも、コンプレックスを抱きたくても、そのときまで生きている人は、これを読んでいる読者のほんの一握りに過ぎないでしょうが(^^;。




             
関連コラム
以前の「気になる科学ニュース調査」から、今回の内容に関連のあるコラムを紹介します。

fMRIごしに見える「考え中」の脳の場所
 ハッキリ言って、今回のミクロなニューロチップとは、まったく正反対のマクロなアプローチであるfMRIなどを使った治療法などについて書いた記事です。今回のニューロチップもfMRIも片方だけでは不十分でしょうから、ともに上手に組み合わせていくことが大切なのでしょう。

関連サイト 

Memberance and Neurophysics - Max Planck Institute(英語)
 今回何度も写真を引用させてもらったのは、フロムハーツ氏の研究室のホームページから。ニューロチップに興味をもった方は、"Publication"の"Abstract"の部分を読むとよいと思います。

Nerve chip goes live - nature science update(英語)
 今回のニューロチップをフィーチャーしたもの。

応用広がる「脳ペースメーカー」(上) - Wired News日本語版

人工心臓で60日間延びる命の意義(上) - Wired News日本語版

Brain Pacemakers - Technology Review(英語)
 本当に最先端の技術を詳しく解説してくれるTechnology Reviewから。このサイトはほとんど無条件でオススメです。脳ペースメーカーについて非常に深く掘り下げている。

Will a chip every day keep the doctor away? - PhysicsWeb(英語)
 体に溶け込み始めたシリコンチップについての特集。

Carver Mead - MIT(英語)
 シリコンチップのパイオニアで、現在はニューロチップの研究をしているカーバー・ミードについてのページ。

アンコールの遺跡
 これはオマケ。木々に飲み込まれつつあるアンコールのタ・プロム寺院の遺跡があります。


なる_科学ニュース

もちろん他にもいろんな科学コラムがあります。
ぜひ、そちらもよんでください。
バックナンバー紹介を見てください。